僕は人の頭をよしよしとなでます。
なでるのが好きなのかもしれません。

でもなでっぱなしにはしません。
そんなに「お人よし」ではありません。

それは誰の為?
自分とその人の為。

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捨て猫がいたらどうしますか?

可哀想にと抱きしめますか?
それとも無視して通り過ぎますか?

この二つの答はともに「優しさ」です。

抱きしめるのはもちろん優しさ。そこに「共感」があるのかもしれま
せん。自分が同じ立場なら、寂しいだろうなと。
この「抱きしめる」という行動に責任を果たす自信があるのなら、そ
れはそれで、抱きしめても構わないでしょう。アナタは「優しい」の
だから。

でも、そこに責任が伴わないのだとすれば…?
それは残酷な優しさです。
一度知ってしまった温もり(優しさ)は、心の中に宿り、消えません。
もしも、元の冷たさの中に返る運命になるとすれば…。その優しさは
むしろ残酷でしょう。その温もりを知らなければ、この冷たさをより
冷たいと感じることはなかったことでしょう。
集団の中で孤独を感じることと似ているのではないでしょうか。
始めから一人だったのなら、孤独は感じないでしょう。

無視して通り過ぎるのは、この残酷な優しさを避けるための優しさな
のかもしれません。より不幸な辛さを味わうことのないように。
安楽死の問題と似ているようにも思います。

ただ

その優しさが一時的なモノであると、理解できており、納得できてい
るのならば、その残酷な優しさは「残酷」ではないのかもしれません。
終わりの見えている始まりを納得できているのなら。
初めから覚悟できているのだから、「残酷さ」は少なくなるでしょう。
でも「少なくなる」だけですから…。
やはり以前よりも、負の感覚は鋭さを増してしまうのでしょう。
でも、何も優しさを感じないよりかはマシなのかもしれません。


ボクラは理解と納得ができるのだろうか?
理解と納得はしばしば別の次元に存在しているのだから。
頭では分っていても、心ではどうですか?

「知らなければヨカッタ…」
のか

「少しでも感じられてヨカッタ…」
のか

そもそも
「その優しさを知っていないからヨカッタ」
のか

優しさを知るには、冷たさを知らなければならない。
冷たさを知らないでいるために、優しさを知らないでいるのは
シアワセなんだろうか?

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