道徳による行動の制御と法による行動の制御。

道徳は社会規範を個人が内面に取り入れている。
社会化なのかなぁ。その社会に適合・適応する形で行動が形成される。

法は、何なんだろう。専門じゃないから…。ひとまず道徳と違って、
外的な強制力がある。それが罰?
でも英語だったら、sinとcrimeがある。
sinは道徳的な罰。
crimeは法律的な罰。
じゃあ、「罰」は両面性を持っているのかな。

罪かぁ。社会化と関係している気がする。
その人のいる社会の規範。特に道徳の方に関係しているような。
罪の「意識」。意識次第で罪はなくなる。
ただ、周りの人はそうはいかない。
自分は罪だと思っていなくても、周りはが思っている場合がある。
多分、その周りの人の考える罪の最大公約数的なものが法なのかなぁ。

生きながらにして背負っている罪。原罪っていうのかな?
人以外の動物にも罪はあるのかな?

まぁ、罪の話をするとしたら、罪を便宜上二つに分けた方が良さそう
な気がする。
道徳的な意味での罪と法律的な意味での罪。
明確には分けられないけれども。

法律的な意味での罪だと、法律を破ったことそれ自体が罪。
道徳的な意味での罪が厄介なのかも。
そもそも、僕は道徳というモノ事体に違和感を覚える人間だしなぁ。
ある本の影響だろうけど…。道徳事体が、恣意。
確かに、自分が罪を「ツクッテイル」んだろうな。
「犯している」のではなく「ツクッテイル」。
とすると、罪をツクッテイル行動自体に何かしらの結果が随伴してい
ことになる。それは何なんだろう。
感情かなぁ。あと、自分の中にツクッタ人々。自分の中にいる他者。
自分の中にいるその他者の抱く自分のイメージ。
要するに「○○と思われたらいやだなぁ」ってこと。
それが行動の規範になる。それが道徳だったりもする。
自分で作っているのだから、人の数だけ罪や道徳はあるんだろうなぁ。
生まれながらに背負う罪。それは始めは周囲の大人がツクル。
成長するうちに、今度は自分でツクリ始める。それが社会化。
他者がいるから罪がある。自分独りしかいない世界では罪は存在しな
いのではないのだろうか。

他者がいるから罪がある。けど、他者なしでは生きることはできない。
他者がいなかったら「人間」にはなれない。
だから、「人間」であるということ事体が「罪」になるのかもなぁ。
全体の「種族」としての生きやすさの追及した結果が道徳であり、罪。
個人ではなく、集団に帰属させるモノ。
「人間」が「人間」であるためには必然的に罪はツクラレル。
それでないと、「人間」たりえない。社会性を持つという意味におい
ての「人間」。
欲求は罪なのかなぁ。罪だとしたら、生きとし生けるもの、全てが罪
を背負っている。それを罪だとしたら、特に気にする必要はないのか
もしれない。「罪」が「普通」になったら、もはやそれは「罪」では
ないのだろう。
「罪」が「罪」たりえるためには、独自性が必要。
その一つが「ツクル」ってことじゃないのかなぁ。
ツクラナケレバ罪はない。

けれども、僕らは「ツクラサレテイル」。
ツクラナイト生きていけない、「人間」として。
それが「人間」としての宿命かなぁ。
キリスト教での原罪(よく知らないけど…)。

でも、抗うことができる、罪に対して。
罪は「ツクラレテ」いるのだから。
自分でツクッテイルのだったら、何とかできる、何かしらできる。
でも、それは幸か不幸か…?
抗う一つの手段が「償い」。
それさえ「ツクッテイル」のだろうなぁ。

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