それはステレオタイプとか固定観念とか先入観とかの結果。
それが偏見とかにつながっていく。
でもそれがないと生きていくには辛すぎる。
だからselective atentionか?
生きていくには情報が多すぎる…。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。そんなに一度に処理しきれない。
だから、ある程度は、情報の仕分けをせざるを得ない。
労力を抑えるってことなんかなぁ。

一体、どれだけのことに気が付かずに生きているんだろう?
ふと、生きているということに違和感を覚える。
どうして仕事をしているの?
どうしてご飯を食べているの?
どうして友達と一緒にるの?
とか。
いままでありきたりで普通に見えていた町並みが、突如として見知らぬ
風景のように映ってしまう。それが本当は普通なんではないかな?
例えば、外から自宅にまで戻る道を考えてみる。
信号はいくつある?
コンビニの横の建物は何?
どこの角を曲がるの?
あの青い屋根の家の窓には何色のカーテンがある?
見えているのに、見ていない。
見慣れた風景って、本当に見慣れているのか?
大まかな概念として、抽象化して、情報を処理しているんだろう。
その概念化が、心理学でも問題になるんだろうけど。
犬っていう概念がある。でも「犬」という「犬」は存在しない。
でも。僕らは犬を知っている、不思議なことに。
犬と猫が違うことが分かるし、写真を見て区別できる。不思議なことに。

今目に映っているモノは、本当に実在するのか?
刺激⇔反応の結果だろ。
刺激が無くても、反応が出ることもある。
夢とか幻覚とか錯覚とか。
胡蝶の夢のような感覚。
その人にとって、現実であると思えるモノが現実としての位置を占める。

ちょっと一歩引いて、世の中を見るとさ、別なモノが見えてきそうだ。
あの人は誰?
仕事って何?
お金って何?
愛情って何?
社会って何?
僕って誰…?

事実が事実として認識されるためには、ボクラが事実として認めなけれ
ばならない。事実と認めていないことは、その人にとっては事実ではな
い。つまり、そういうこと。

たくさのコトを無視しながら生きている。
本当はそれでいいんだ。
生きやすいから。
でも、それを無視できなくなってしまったら?
それはひどくオソロシイコトに思える。

プラスもマイナスも本当はナイ。
でも、ゼロもナイのかもしれない。まぁ、ゼロの定義にもよるけど。
でも、きっと、ナイモノでもアルとして認識することから始まるのかな。
全てはナイんだ。
だからこそ、全てアルんだ。
そんな感じで。

生きているセカイ。
ひどく脆いモノに感じることがある。

意味はナイ。
意味は作るモノ。
作るのも自由、作らないのも自由。
だからボクは作る。
それが楽しいから。
それで生きやすくなるんなら。
何をやってもいいんだから。
ボクは、こう決めた。

あの人がこう言った。
だからボクはどうするんだ?
ボクとカレの価値観はどうやら違うようだ。
違和感を感じる。
まぁ、それでいいんだろう。
その方が自然。


と思ったコトを大切にする。
見えないモノが見えるチャンス。
生きているうちに
どれだけのモノが見えるんかなぁ、ボクには?

その違和感は両刃の刃。
生きやすさから離れてしまう。
でも
何かを得るチャンスでもある。
そのまま生きやすさから離れてしまえば、
ボクはココにいることはできないんだろうな。

まだ、その違和感が些細な程度だ。
これから先、どうなるのかが、ある意味楽しみだ。
ボクはボクの人生の主役。
書くのはジブン。
時々、色んなイベントが起こるけど
それをどう書くかによって、人の個性が出る。
どう書くかは自由。
でも、社会という巨大な固定観念の塊がその自由を抑制してる。
だから、均一的なイベントとして見られてしまう。
それはもったいないことだよね。
そのタガからはずれさせるのが
違和感。
生きにくさということを代償に
自由を手に入れる。
さて、ボクはどうなるのか楽しみだ。

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